1年間をかけて神咲雫と遠峰一青が探し求めた『神の雫』と『十二使徒』の十三本のリストをひとつに編纂。神咲豊多香が息子たちに課した長い旅路の道標。神咲豊多香の記述から使徒候補、雫と一青の感想まで、神の雫を完全網羅。
十二使徒は「人の生きる様」そのもの。人間そのもの、人生そのもの、この世界そのもの。十二使徒は一つの物語であり、エピローグの形をしたプロローグ。神の雫はその完結編。ワインを巡る対決は、与えられ続けてきた者と与えられなかった者の相容れない二つの個性が一つのデキャンタでぶつかり合う闘い。使徒の世界観は品種や造り手、テロワールのもたらす要素を渾然一体と内包する中で伝わってくるイメージ。それが使徒の世界観。
第一の使徒
神咲豊多香の記述
私は原生林に覆われた深い森の中を彷徨っている 苔生(む)した木々から湿り気を帯びた生命の香りが漂う中 癒しを求めて森の奥を目指して歩く ふと目の奥に差し込む 一条の光に私は気づく 森の中にあるはずのない花や赤い果実の香り 胸に手を当て逸(はや)る心を抑えながら歩みを進める 不意に森が開け奇跡のように湧き出した澄みきった小さな泉 砂漠の中のオアシスのように 忽然と姿を現す癒しの水辺 天上からの光を受けて 水面は無数の宝石さながらに煌めいている 私はその美しさに吸い寄せられ そっと泉に近づく 瞬間さざ波をひきつれて 駆け抜けてくる風が 甘い花と野生の赤い果実の香りを鼻腔に届けにくる 森の奥であることを忘れさせてくれる香りのハーモニー 私は軽い目眩(めまい)を覚え にわかに潤いが恋しくなる 上質なクリスタルのように澄み切った光に手を浸し そっと上澄みを口に運ぶ なんという甘さ なんという気高さ 自然の恵みがもたらしたこの豊かさは 人の手の及ばぬこの処女地にこそふさわしい おお見よ あの絡み合うふたつの菫色(すみれいろ)の蝶たちを! この小さな泉は お前たちの聖地なのかもしれない
第一の使徒を巡る重要ワイン
ボンヌ・マール
シャンボール・ミュジニー村の2大グランクリュのひとつ。第一の使徒を探す過程で神咲雫がロベールから「ワインの神秘」を教わった。1999年と2001年を飲み比べ、ワインの「ヴィンテージ」を学んだ。99年はワイン造りに必要な全ての要素を兼ね備えた理想のヴィンテージ。01年は雨量の多い年で収穫量を下げ凝縮感を高め醸造に工夫を凝らした。厳しい年を生き抜いて選び抜かれた葡萄は、その内側の奥にグレート・ヴィンテージのワインにはない生命力を秘めている。指の隙間からこぼれ落ちんとするその一杯は素晴らし過ぎるヴィンテージにはない秘められた官能をたずさえている。それがワインのヴィンテージであり「ワインの神秘」である。
第一の使徒の候補(遠峰一青)
シャンボール・ミュジニー・レ・ザムルーズ 1999年
天上から注ぐ柔らかな光はまるで神の祝福。きらきらと水面が輝き私を誘う。誘惑する。恋人たち。完璧に美しい非の打ちどころのない一枚のルネッサンス絵画のような、なんと素晴らしい光景なんだ。もはやこれは人智の及ぶところではない。ここにたどり着いてしまえば人は帰り道を見失うかもしれない。それほどの魅力、それほどの緻密さ、甘さ、優しさ、たおやかでありながら強い。このワインはすべてを持っている。神からそれを生まれながらにして与えられている。
第一の使徒(神崎雫)
シャンボール・ミュジニー・レ・ザムルーズ 2001年
- 国:フランス
- 地域:ブルゴーニュ
- 葡萄:ピノ・ノワール100%
- 年代:2001年
- 生産者:ジョルジュ・ルーミ
フランスのブルゴーニュ地方、コート・ド・ニュイ地区にある村「シャンボール・ミュジニー」。ブルゴーニュで「最もエレガントで女性的」といわれる。「レ・ザムルーズ」はフランス語で「恋人たち」の意味。レ・ザムルーズは、シャンボール・ミュジニーを代表する特級畑ミュジニーの下に位置する面積5.40haの小さな一級畑。しかし、「クロ・パラントゥ」、「クロ・サン・ジャック」と並んで特級を凌ぐ偉大な一級銘醸畑として知られる。99年はスキのない美しすぎる森の中の泉と恋人たちの愛し合う姿が浮かんだ。それは本当に完璧な瞬間で完璧であるが故に物語はそこで終わっている。もっと探し続けたい。謎めいたワインの世界に分け入り、ともすれば逃げ去ってしまう優しさを追いかけていきたかった。あの美しすぎる光景の中で恋人たちは近づきがたい存在で一編の完成された映画を観ているような取り残された感覚に陥る。人間だって美男美女ばっか揃っているんじゃ美しさ自体が意味を成さなくなる。欠点があってもいい。でも追いかけて行きたくなるようなその魅力を探し求めて踏み込んで行きたくなるワイン。二匹の蝶は行ってしまった。でも自分から近寄って行けた。ただ遠巻きに眺めるだけじゃなく想像の翼を広げてこの光景の中に舞い降りることができる。シャンボール・ミュジニーの「レ・ザムルーズ」の199年はグレート・ヴィンテージの天の恵みが加わり、人の手を煩わさずともすばらしく花開いた。しかし、厳しいヴィンテージにこそ本領を発揮した。グレート・ヴィンテージにはない個性を表現する複雑で静かで深い森のように深遠な謎めいたワインとなって結実した。
第二の使徒
神咲豊多香の記述
このワインは「モナ・リザ」である。私はフィレンツェからピサへ向かう街道に車を走らせていた。中程まで来た頃だろうか。ふと古いロマネスク様式の教会が目に留まり車を止めた。車を降りた私は樹齢数百年のオリーブの古木を庭に植えた古い家並みを、たわわに実った葡萄畑を抜けて村の中心部へと歩いて行く。ローマ時代の石畳の道をゆっくり登り詰めて行くと、一軒のレンガ造りの古い家にたどり着いた。私はその家に暮らす者が誰なのか興味を持った。不思議な気配を覚えたからだ。この小さな町のどこにでも見かけるようなただの古い家なのに、そこには完璧な美と理路整然とした調和を生み出す不滅の魂が確かに宿っていた。私はその家に踏み入った。その瞬間、私の魂ははるかな時を遡り美と謎にとらわれた一人の芸術家と邂逅したのである。彼は私を自分のアトリエへと誘った。高い窓から降り注ぐ午後の陽光は黒い布に覆われた2枚の小さな絵画を照らし出していた。芸術家は私を絵の前に立たせ謎を描けるように布を取り払った。2枚の絵はいずれも婉然(えんぜん)と曖昧な微笑みを浮かべる女を描いたもので見分けがつかないほどよく似ていた。芸術家は私に尋ねた。「お前はどちらを愛するか?」と。私は尋ねた。「このふたつの絵はいつ描かれたのか」芸術家は答えた。「右の絵は夏に描いた」「左の絵は春だ」。それを聞いてもうひとつの質問を投げかけた。「このふたつの絵はいったい誰を描いたものだ」と。芸術家は再び答えた。「左の絵は子を宿したばかりの女だ。右の絵は.....」言いかけて芸術家はいたずら小僧のように微笑み私に向かって言った。「右の絵のモデルは教えられない」。私は改めて2枚の絵を見比べた。右の絵はより力強くまだ絵の具の乾ききっていない若々しさが溢れていた。対する左の絵は完成された柔らかさと慈しみが溢れ、私の心を真綿のような優しさで包み込んでくれた。私はすべてを悟って答えた。「私が愛するのは左の絵だ」と。
第ニの使徒を巡る重要ワイン
アルタ・エゴ・ド・パルメ 2000年
シャトー・パルメのセカンド・ワイン。神咲雫が「セパージュの罠」にかかったワイン。2000年のセカンド・ワインは女性的で力強い、カベルネの複雑さと謎めいた奥行きをしっかりもている。セカンド・ワインはカベルネ比率が非常に低く30%。しかし、その延長線上のファースト・ラベルは頑固な芸術家の自己主張が感じられる。神咲雫が間違えたのは、ワインの魔力にとらわれ、あてどない航海に帆を広げ、今まさに旅立ったことの証。ワインをただの酒として渇きのままに飲み始めるのではなく、見れば見るほど奥深く謎に満ちた世界であることがわかる。敗北と新たな旅立ち。
第二の使徒の候補(神咲雫)
シャトー・パルメ 2000年
この力強さ、燃えさかるエナジー、灼熱の太陽が焼きつける鮮明な光景。冴えわたる緑とむせかえるような山百合の中を俺は歩いて行く。すると俺の目の前にひとりの女が現れた。それはモナ・リザではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身だった。2000年はカベルネが非常に良くできたため、ファースト・ラベルはカベルネを53%も使用し、「パルメ」らしさに欠ける男性的なワインになってしまった。だから「モナ・リザ」でありながら男性のダ・ヴィンチ本人のワインになった。
第二の使徒(遠峰一青)
シャトー・パルメ1999年
- 国:フランス
- 地域:ボルドー(マルゴー村)
- 葡萄:カベルネ・ソーヴィニヨン 48%、メルロー46%、プティ・ヴェルド6%
- 年代:1999年
- 生産者:シャトー・パルメ
フランス・ボルドーのメドック地区、マルゴー村にあり、メドック第3級格付けのシャトー。メルロー比率が高く、シャトーの作付面積のうち約半分をメルローが占める。香り・味わいに対する評価が非常に高く、その人気や流通価格からも、シャトー・マルゴーを凌ぐともいわれる。『第二の使徒』である1999年は謎めいた微笑み.....私に問いかけてくる。言葉ではなく笑みをもって。ここは春だ。生命が息吹く季節だ。このワインは母。すべての生命が芽吹く春。子を宿す慈しみに満ちた微笑みが私を魅了する。どこまでも渇き求め訴えた私の辿り着く先には母なる「モナ・リザ」の潤いと癒しが待っていた。胎内に命を宿したもっとも女性らしい優しさと筋肉質ではない心の力強さ、そして謎、それらすべてを兼ね備えた一本。
第三の使徒
神咲豊多香の記述
『第三の使徒』は私自身の記憶の引き出しにしまわれていた。そのワインは忘れかけていた小さな、しかし、かけがえのない感動を呼び覚ましてくれたのである。あれはいつの日の光景だっただろう。夏に向かう季節ーー草むらの中を中のいい友だちと駆け回りながら日が傾くまで思い切り遊んでいた。隠れん坊をしていた私はいつの間にか友だちの気配がどこにもなくなり空き地に取り残されてしまったことに気づいた。空き地には今は見かけなくなった白いタンポポが雑草の中に群生している。広がり始めた夕焼けがそれらを真っ赤に染めあげていく。どこからともなく夕食を作る美味しそうな香りが風に乗って漂ってくる。何かを焼いているのか?空き地の草の匂いと通じり合い、それらは上等なハーブやスパイスの香りとなって鼻をくすぐる。私は夕闇の空き地に独りきりになってしまった不安で団欒を思い起こさせる香りをおびた風によってどうしようもなく家が恋しくなる。帰ろうもう帰ろう、そう思って歩きだす。だが黄昏が迫る家並はどこも同じように見える。歩いても歩いても家は逃げるように遠くなる。道を見失いお腹がすいて途方に暮れて泣き出しそうになった私の肩に温かい手が置かれた。坊や....温かく大きな手の主は私に微笑みかけ不安を取り除くためにお菓子をくれた。その小さなひと塊を私は口に含んだ。ほっとするような甘さ。考えられないほどの芳醇さ。その温もりは一瞬の思い出として幼い私の胸に永遠に刻まれた。気がつくと私は家の前に立っていた。薄く開いた窓からは団欒の笑い声が漏れ聞こえる。愛し信頼する家族の温もりを求めて私は重い木の扉を開けた。
第三の使徒を巡る重要ワイン
シャトー・ペトリュス 1970年
神咲雫が最高のワインの旬、ワインの飲み頃を知るために映画監督の黒川から飲ませてもらった。世界観が変わるくらいすごいワイン。ただワインを飲んだだけではなく「時を飲んだ」という感じがする。吸い込まれそうなふかい香り。森の奥のような針葉樹の湿り気を帯びた香り。なぜか矛盾しない洋菓子のような甘い香りもある。別世界に連れて行かれそうな不安さえ感じる複雑さ。人生を豊かにするためのにすべてが揃っている。ぜいたくで決して飽きのこない極上の波の音。豪華客船。幼少の頃、親父と二人で出かけた船の旅。日は沈む前が一番美しい。ワインも衰えはじめる前に最もその輝きを極める時が来る。
第三の使徒の候補(神咲雫)
サンタ・デュック・ジゴンダス2000年
懐かしい郷愁の世界。夕食を作る美味しそうな香りが風に乗って漂ってくる。謎めいた孤独が夕闇とともに降り注いでくる。郷愁のワイン。優れたローヌではあるが、孤独感、裏腹な安堵、それ故の感動という第三の使徒の本質は抜け落ちている。第三の使徒がグルナッシュのV.V.であることは間違いない。ただし、力尽きる前の最後の一房を集めたような60年以上の老木。人は人生の山や谷を経験し、終焉を迎える頃、心を許したくなる優しさを身につけることができる。そんな誰もがほっとするような笑顔があったからこそ、神咲豊多香は躊躇なくお菓子を味わうことができた。
第三の使徒の候補(遠峰一青)
シャトー・ド・ボーカステル・シャトー・ヌフ・デュ・パプ 1981年
ローヌの古酒。郷愁というより「黄昏」のワイン。燃え上がるような黄昏に落ちていく夕陽の味わい。みなぎるような若々しさは見当たらない。少年たちの遊ぶさまを懐かしく眺めている老人の姿。第一の使徒が船出、第二の使徒が港を抜け外海に向けて帆を上げ、第三の使徒は逆風。逆風に向けて船を操舵できる船乗りだけが七つの海を旅する資格がある。
第三の使徒(神咲雫&遠峰一青)
シャトー・ヌフ・デュ・パプ・キュヴェ・ダ・カポ 2000年
- 国:フランス
- 地域:コート・デュ・ローヌ
- 葡萄:グルナッシュ75%、シラー20%、ムールヴェードル5%
- 年代:2000年
- 生産者:ドメーヌ・デュ・ペゴー
燻したような香ばしさの奥からナッツやミルク、とろけるようなメイブルシロップ、40リットルもの楓の樹液から1リットルしか採れない貴重な琥珀色の液体を思わせる甘く香しい香り。心躍るような郷愁がこのワインの深い果実味に溢れかえっている。あまりにも優しくふくよかなタンニンは、例えるなら仲のいい友達とのちょっとした諍い。それがかえって仲直りの瞬間の喜びを豊かに引き立ててくれる。幾層にも重なり合う芳香と完熟した黒すぐりコーヒー、リキュール、ビターチョコ、黒胡椒、東洋のスパイス。数えきれないほどの複雑な要素が本棚いっぱいの古いアルバムを紐解くように次から次へと。香ばしくて甘くて懐かしくて何より温かい。ほっとするような甘さとすべてを包み込むような温かさ優しさ。本当に伝えたかったのは遺言の記述に紡ぎ出されていないドアの向こうの最後の光景。人とというものを改めて肯定したくなるような慈しみに満ちている。団欒。このワインのもっとも深い部分に横たわる真髄を余すことなく汲み取ったのは敗者である遠峰一青。その背中にはワインの真髄にまたひとつ迫った充実感と、それゆえにまたひとつ背負い込んだ深い悲しみだけが、ゆらゆらと青白い炎のように立ち上って見える。
第四の使徒
神咲豊多香の記述
私は5月の晴れ渡った空の下にいる。そこは大樹の下で優しく陽を遮る陰に守られながら光り輝く庭園を眺めていた私はふと携えていた一冊の古い本を繙(ひもと)いた。
「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけりやさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃を君が情に酌みしかな 林檎畠の樹の下に おもづからなる細道は 誰が踏みそめしかたみぞと 問いたまふこそこひしけれ」
私はゆっくりと立ち上がり、そらんじたその詩を口ずさみながら花咲く庭園をそぞろ歩く。遠い記憶の中で甘く微笑む少女を想いながら、芽吹く青葉の香りと足元から立ちのぼる雨上がりの土の香りに酔いしれて......いつの間にか私は庭園の直中に佇んでいた。紅色 櫻色 赤紫 そして白妙(しろたえ)の鮮烈な花のハーモニー 。私はその中から赤紫の一輪をそっと摘みとり、いつか少女とともにそうしたように蜜腺を吸った。混じり気のない透明な仄かな、そして自らを語ろうとしない無口な甘さが、記憶の中の少女の微笑みと甘い口づけに寂(しず)かに連なっていく...そのワインは初恋の人に似ている。
第四の使徒を巡る重要ワイン
シャトー・ネナン
ポムロール地区の人気シャトーのワイン。1997年にシャトー・レオヴィル・ラス・カーズのミシェル・ドロン氏に買収されテロワールの本領を発揮した。モノポール藤枝さんの思い出のワイン。フランスに勉強に行ったとき、お金がなくて高いワインを飲めないとき、まだ無名だったシャトー・ネナンを飲んだ。なんて美味しいと感動し、その感動は小さなワインバーをやっている今でも記憶の中では少しも色褪せていない。あのときボルドーの小さなビストロで飲んだ「ネナン」の感動はもう決してそこに見つからない。思い出と共に味わうワインは甘くて切なくていつも少しだけ物足りなくもなる。藤枝さんは初恋の思い出を引きずる想名誰に「恋を想い出に変えるワイン」として2001年を出した。たとえ初恋の人と再会できても、思い出の中の人とは別の誰か。そう思って会えば思い出も色褪せず、今の人を素直に認めてあげられる。初恋は甘くて純粋なだけの思い出では終わらない。
第四の使徒の候補(神咲雫)
シャトー・ラフルール1992年
近づきやすいのに決して触れ合うことの許されない遠い過去の思い出の中にしかない純粋さ。過ぎし日の思い出の中で奏でる初恋のセレナーデ。1992年には林檎のアロマがない。ただし神咲雫が辿り着いた初恋の世界には林檎なんてない。父の初恋の人が母であって欲しいと思い、母そのものの92年を選んでしまった。
第四の使徒(遠峰一青)
シャトー・ラフルール1994年
- 国:フランス
- 地域:ボルドー(ポムロール地区)
- 葡萄:メルロー50%、カベルネ・フラン50%
- 年代:1994年
- 生産者:シャトー・ラフルール
ツツジの庭園、穏やかな5月の風が頭をくすぐる香り。濃すぎない澄んだ紅は最高品質のルビーの美しさを表現する「ピジョン・ブラッド」を思い起こさせる。どこまでも透明でありながら深遠さを兼ね備えている。まるで蜃気楼のようなワイン。ツツジの小道を抜けた私の目の前にふいに現れた初恋の人の面影は、逃げるように陽光に溶けて風の中に消え、そして私の手にはひとかじりした林檎が残されていた。初恋の人の涙の味がするワイン。初恋の人は自分の母親や父親に似ているもの。
第五の使徒
神咲豊多香の記述
私は今、孤高の頂に佇んでいる。この清冽(せいれつ)なる待機、今、私の頭上には空の他、何もない。眼下の峰、総てはひれ伏すように横たわり、岩肌に張りつく白銀は絹のドレスを纏うかのように滑らかに輝いている。ふいに涙がこみあげた。その意味を探るべく私はこの頂に至るまでの道程を振り返った。常に困難でありながら堪えきれぬほどの希望、そして何より魔物に魅入られたような執念に駆り立てられ私は頂を目指したのだった。朝日に色づきはじめた高峰を見上げながら第一歩を踏み出した。挑む者を試すような静けさ、巨人はただ見下ろすのみだ。私は「ドン・キホーテ」のように挑みかかる。はやる気持ちを抑えながら、踏みしめるように頂を目指す。するとどうだろう。山は刻々とその表情を変え、時に笑顔、時に穏やかさを見せ、そして時に荒ぶる魂をもって牙を剥く。しかし私は諦めない。理想と希望、そして魂の求むるがままに私は岩にしがみつき滑る雪を踏みしめ、ひたすら高みを目指してゆく。あと少しあと少し、魂は飢え、渇き、聳え立つ頂以外、何ものも目に入らない私を嘲(あざけ)るように山は巨大でそして美しく沈黙している。絹のヴェールに覆われたような頂上は時折、視界に現れてはまた消え近づいたと思えば逃げ水のようにまた遠ざかる。ああ山よ。お前は魔物か。それとも神なのか⁉︎どれだけの時が流れただろう.....私の手は気がつくと頂をつかんでいた。辿り着いたのだ私は。なんという至福、なんという透明。豊かさも冷たさもこの世の複雑さも、あるいは優雅さも。この頂から総て鳥瞰(ちょうかん)できる喜び。私はそれを胸いっぱいに吸い込み、そして山を後にした。遠く高嶺を望めるところまで来て私は振り返った。孤高の頂は再び神秘に包まれ私を誘っていた。「もう一度いつかまたおいで、今度こそ教えてあげるから」。私は確かに聞いた。あれは幻だったのか?あの光景の総ては夢幻に過ぎなかったのか。それを確かめるために、いつかまたあの孤高の山を目指したいと切望せずにはいられない。今あの孤高のワインを飲む時に、ただひとつ言えることがある。いかに高い理想を持ち、いかに大きな期待を胸に味わったとしても、そのワインには決して失望することはないだろう。
第五の使徒を巡る重要ワイン
サン・トーバン・1er・Cru・ラ・シャトニエール2005年
フランスのブルゴーニュ、"シャルドネの聖地"サン・トーバン地区でドメーヌ・マルク・コランがプルミエ・クリュ (一級畑)であるラ・シャトニエールのシャドネで作ったワイン。ヨーロッパ・アルプスの人を寄せつけない厳しさはワインで喩えるならミネラル。聳り立つような高峰の厳しく鋭角的なミネラルがある。登山写真家の岡崎が遺した2005年のヴィンテージを「槍ヶ岳のワイン」と評した。槍ヶ岳の残雪が見える飛騨高山の温泉で抜栓。当時は5000円台。刃物を突きつけるようなブリザード、冬山のように人の命を飲み込むような厳しさがある。包み込むような優しさは親しみやすさに繋がるが、人はワインに時として厳しさを求める。ワインに挑戦したくなるような厳しさを求めるもの。「そこに山があるから」とう言葉どおりに、そこに厳しいワインがあるから挑みたい。挑んでそのワインの頂上にあるまだ見ぬ何かを求める。
第五の使徒候補(神咲雫)
マルク・コラン モンラッシェ 2000年
最も美しく最も効果で最もエレガントな白ワインの最高峰「モンラッシェ」。微かに黄金を溶かしたようなどこまでも美しく澄んだ液体。凄まじいスケール感、比類なき複雑さ、それら総てがどっしりとしたミネラルの土台の上にそそり立っている。しかしそれは触れれば切れるような鋭いミネラルではなく透明で磨き抜かれた水晶のような、紛れもなく最高峰でありながら決して孤高ではない。包み込むような優しさをもたらす友の存在を感じる。信頼すべき広く偉大な背中。孤独や厳しさと闘うのではなく大勢の者たちの後押しによって初めて成し遂げられる偉業のように、唯一無二でありながら決して他のものを見下しはしない包容力。どこかワクワクするような道の果てに辿り着く旨のすくような絶景、アルプス最高峰モンブラン。
第五の使徒(遠峰一青)
ミシェル・コラン・ドレジェ・シュヴァリエ・モンラッシェ 2000年
- 国:フランス
- 地域:ブルゴーニュ(ピュリニー・モンラッシェ村)
- 葡萄:シャルドネ100%
- 年代:2000年
- 生産者:ミシェル・コラン・ドレジェ
ブルゴーニュ白ワイン最高峰。モンラッシェよりもわずかに濃い黄金。決して黄色などという単純な形容は似つかわしくない、もっと複雑なその胎内に秘めた厳しさをどこか予感させる金属質な透明感。このワインはまさに魔物。迂闊に近づこうとする者を寄せつけない厳しさを持ちながら、いったん足を踏み入れてしまえば二度と引き返すことを許さない魅力を放っている。この試練こそが後に待つ優しさ、喩えようもない気高さに至るまでの決して避けることのできない登頂ルート。圧倒的なミネラル。モンラッシェのように優しさを内包した丸いミネラルではなく、より鋭角的なごつごつとした厳しいミネラル。その華やかで蠱惑的(こわくてき)な香りへ吸い寄せられるように口にすれば驚くようなミネラル感に一瞬誰しもが戸惑い、その厳しさに畏れさえ感じる。しかし飲み続ければそこには、いかなる期待をも裏切らない感動がある。人が山を目指すのはなぜなのか?それは苦しさや厳しさを乗り越えることなしに本当の喜びを得ることなど決してできないことを知っているからだ。その頂には決して期待を裏切ることのない至福が必ず待っている。畏れも絶望も哀しさも総てを包み込み、幸福へと昇華させてくれる感動がきっと待ってくれている。このワインの本質は試練、そしてそれを乗り越えたときにだけ味わえる大いなる達成感。
第六の使徒
神咲豊多香の記述
孤独、この世に生を受けたときから私は真の孤独というものを知らずに生きてきた。私の近くには常に温もりがあった。本当に苦しいときは癒しを与えられ、思い上がっているときは厳しさの中に放り込まれた。そうやって私は生きてきた。それが当然と思って.....私は見捨てられた吟遊詩人のように暗闇を歩いている。初めて味わう孤独に怯えながら...ふと立ち止まるといつの間にか漆黒の空は深い藍色を帯び始めていた。ここは見渡す限り動くもののない静かなる領域、その世界には静謐な泉は存在せず、それゆえに水面を渡る涼やかな風を感じることはない。渇きを癒す泉もなければ焦燥を鎮めてくれる風もないのだ。それにも拘(かかわ)らず救いがあり癒しがあり何よりもそこに身を浸すような穏やかさが溢れている。ゆっくりと明けていく薄闇の向こう側に柔らかで安堵に満ち溢れた影が佇んでいる。謎めいた「影」はやがて微かな光の衣を纏い始めた。残月の如く浮かび上がるその姿は厳(おごそ)かでありながら慈愛に満ち溢れている。その佇まいは人でありながら宇宙である。その眼差しは伏していながら総てを見つめている。その指先は永遠なる思惟(しい)を物語っている。立ち上がるでもなく座り続けるでもなく語るでもなく笑うでもなく、そしてただ沈黙するでもない。幸せでも不幸でもなく夜でもなく朝でもない。太陽でもなく月でもない。しかしあなたは私を受け入れてくれている。ありのままの私を静かに抱き寄せてくれようとしている。思わず近づく、愛する子のように、愛される母のように、孤独を携えた私の肩を抱き寄せてくれる気がして、抗うことのできぬ力に引き寄せられながら私は歩み寄る。頬を寄せる安らぎを求めて。そして訊ねる。私は何をすればいいのですか?この先の幾歳(いくとせ)を生き抜くことに一体どんな意味があるというのですか?弥勒菩薩半跏思惟像。このワインは悩める者の問いかけに黙示をもって答えてくれる。
第六の使徒を巡る重要ワイン
ジュヴレイ・シャンベルタン1級「クロ・サン・ジャック」1997年
ブルゴーニュのコート・ド・ニュイ地区ジュヴレ・シャンベルタン村の1級畑で生産者アルマン・ルソーが造るピノ・ノワール100%。遠峰一青が母・仄香から京都の広隆寺の霊宝殿で飲まされ、自分がいかに未熟で神咲豊多香の背中が遠い存在かを思い知った。温かい涙。抱きしめる代わりに流す涙。悲しむ、誰かの代わりに涙を流すその姿。泣き弥勒のワイン。
第六の使徒候補(遠峰一青)
ブルーノ・ジャコーザ・バローロ 2001年
「バローロのロマネ・コンティ」と呼ばれるワイン。大樽を使って豊かなタンニンをワインに与え、長熟に耐える古典派の代表格。ワインの奥に真理が垣間見える。無限に広がる宇宙の深遠が。何ものも寄せつけないような気高さ、突き放されたような孤独が記憶の断片を拾い集めたように形を成していく。中宮寺の弥勒菩薩半跏像。神々しいまでに端正で近寄りがたい後光を戴いた像。ワインを知りすぎている、それ故に陥る罠もある。「東の野に かぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」
炎(かげろひ)は夏に野から立ち昇る陽炎と、柿本人麻呂の歌では夜明けの燃え上がるような光を指す。宇宙の「宇」は世界を意味する言葉。「宙」と対になって時の広がり、古往今来(昔から今まで)を示す。夕日は明から暗に向かう刹那の光であり、安堵こそあれ、その先に闇が待っていると誰しもが知っている。朝日は長い闇から解き放たれる瞬間の輝かしい希望に満ちている。どちらも太陽。
第六の使徒(神咲雫)
バローロ・カンヌビ・ボスキス 2001年
- 国:イタリア
- 地域:ピエモンテ州
- 葡萄:ネッビオーロ100%
- 年代:2001年
- 生産者:ルチアーノ・サンドローネ
「カンヌビ・ボスキス」という最高の単一畑(モノポール)のテロワールを忠実に表現するために、やや大きめの樽を用いてこの上なくエレガントなバローロを産み出した。バローロの宇宙観とその複雑さを総て兼ね備えながら、何ものも退けない優しさを携えている。未明の漆黒が微かに藍色を帯びながら明けてゆく。その刹那の厳かな光明。人として歩むべき道が宇宙の偉大なる意思のもとに確かに続いているのを感じる。強いて言えば宇宙の理のような感覚。弥勒菩薩半跏思惟像そのもの。ここから先に感じたことこそが神咲豊多香が伝えたかったこと。最初に感じた孤独は旅立ちのせつなさ、心細さ。たった独り誰にも頼らず歩み出したときの、あのどうしようもない焦燥感。簡単なようで容易く前に進めないその焦りと戸惑い。迷いながらも前に進む気力を持ち続けていられるのは父や母をはじめとする成長していく自分を見守り慈しんでくれた人たちのおかげ。このワインは半生を振り返って初めて気づく人間の本当の優しさ。
第七の使徒
神咲豊多香の記述
そのときの私は自信に溢れていた。荒野にひとり佇もうとも、深い森をひとり彷徨おうとも、道を失おうとも、あるいは大海に浮かぶ小舟にただひとり揺られようとも、決して動じることはない。そう思い込んでいたのだ。群れを離れた若獅子のごとく猛々しく振る舞っていた自分を、私はこのワインをグラスに注ぐ。そのたびに思い起こさずにはいられないのである。その香りは私を捕らえて放さない。懐かしい過去のように輝かしい未来への空想のように。私はたまらずに手を伸ばしそれを味わう。どこまでも高い空、見渡す限り広がる地平線。そして確固として動じない大地。私は我が身の矮小さを思い知らされる。遠くから地鳴りのように厳かに、潮騒のようにたおやかに聴こえてくる一本の旋律。それはひとつ、またひとつ重なり合い、荘厳にして複雑なバロックとなって私をとりまきどこまでも鳴り響いてゆく。それは巨大な蟻の塔のように見える。それは群衆の叫びのようにも感じる。それは天を支える聖なる柱のように聳えている。それは訴えてくる。祈るがいい。神にではなく人の力に。目指すがいい、天ではなく声のするほうを。我が身を見失いし者よ。驕り昂(たかぶ)り、それ故に人に見放されし者よ。日々を生きることに振り回され、あるいは目まぐるしい時の流れにただその身を委ね、揺蕩(たゆた)うだけの者たちよ。掌を開き漲る力を確かめ、そしてこの地を訪れるがいい。ここには永遠に終わらぬ夢がある。ここには大いなる未完成が佇んでいる。アントニ・ガウディ。あなたは信じていたのだろうか。人々が諦めることを知らず、あなたの夢を紡ぎ続けるだろうと。幾多の若者たちが西から、そして東の果てからも集い、何を求めるでもなく、槌(つち)を振るい、鏝(こて)を操り、汗を流すことを厭わず、力の限りあなたの描いた夢のその先を、ともに創り続けるこの奇跡を、あなたは信じていたのですか。このワインは永遠の未完成サグラダ・ファミリアである。
第七の使徒を巡る重要ワイン
シャトー・ラフィット・ロートシルト 1945年
神咲豊多香がバックパックでオーストラリアのバロッサ・ヴァレーを訪れ、3ヶ月間エコ・ビレッジをボランティアで手伝ったあと、ワインを輸送することで無駄なエネルギーが使われるため自国のワインしか飲まないと言い張るジャックに飲ませた。1945年は20世紀最高の葡萄の年、ミラクル・ヴィンテージ。優れたワインは遥な地平を飛び越え、あるいは時を遡り、人の幻想を見せてくれる。だから私もそれが無駄と知りつつも、旅を続けずにはいられない。ワインという神でもあり魔物でもあるものの住む果てしなき世界を。バロッサ・ヴァレーには絵の具とカンバスはある。あとは人だけ。芸術家がまだいない。だが、遠くない未来、この素晴らしい絵の具とカンバスで歴史に残る名作を描き出す者が出てくる。神咲豊多香はニューワールドの未来を予見した。オーストラリア人のジャックは西の空が真っ赤に染まる夕焼けが朝焼けに見えた。何かが始まろうとしている黎明の光のように。
第七の使徒候補(神咲雫)
グレッツァー・アモン・ラ・シラーズ 2003年
素晴らしいシラーズの香りがグラスを震源地にして波のように広がっていく。夜の闇がよく似合う赤紫を帯びた華やかなルビー色。空と大地に抱かれた聖なる場所。そこに群衆の叫びは聞こえない。かつてあったかもしれない人々のエネルギーは一旦滅んでいる。まさに100年もの間、誰に知られず忘れ去られていた後に見出され、その偉大さを知らしめることになったカンボジアの寺院建築アンコール・ワット。このワインの意味するものは「発見」
第七の使徒(遠峰一青)
シネ・クア・ノン 2003 ザ・イノーギュラル・イレブン・コンフェッションズ・シラー
- 国:アメリカ
- 地域:カリフォルニア、サンタバーバラ、サンタリタヒルズ
- 葡萄:シラー
- 年代:2003年
- 生産者:シネ・クア・ノン
毎年エチケットやボトルのデザインさえも変え、ワインのテーマもアートのように毎年変えてくる。同じワインを二度と造らない天才醸造家マンフレッド・クランクルの究極のアメリカン・カルトワイン。腕のいい調香師がブレンドした芸術的なパフューム。決して濃すぎないルビー色、液面は宝石のように輝き、魔物のように飲み手を誘う。このワインは怒れる者の肩にそっと手を置いてくれる。悲しむ者を抱きしめてくれる。驕れる者を優しく諌めてくれる。迷える者に日の当たる道を見せてくれる。このワインは独りでは決して成し得ない大いなる夢に向かって集いし若き力。孤独な獅子が初めて知る集うことの意味。ともに歩む「仲間」である。
第八の使徒
神咲豊多香の記述
このワインは「出会い」である。出会いは常にときめきと躍動をともなう。人は人と出会うことでしか変わりえ図、新たな道を見出すこともできない。ただその出会いが異性であった場合、人は時に叶わぬ想いを胸に秘め、ただ遠くから見つめることだけで満ち足りたひとときを過ごすだろう。一瞬のときめき、強さと優しさと激しさと静けさと、きりりとした自尊心とたおやかな女性らしさを兼ね備えた横顔、私にはわかっている。あなたは優しさを渇望している。ただあなたの求める優しさは今の私には到底、手が届かない。ああ美しき人よ。見つめるものを陶酔させる笑顔は甘く、そして切ない。控えめでありながら凛と背を伸ばし、まっすぐに目を見つめるあなたは、その内面に獣のようなエロスと聖女のような高潔さを兼ね備えている。あなたは常に歩んでいる。あなたは留まらず何かを目指している。その何かが私にわからないのは、私がまだ未熟だからであり、決してあなたのせいではない。なぜならあなたは太陽と大地と、そして風のただなかに生きているから。ゆらゆらと黄金の髪を風にたなびかせ、あなたは自信に溢れ、私を振り返る。「ついておいで来られるものなら」。そのワインは一人の女性であり、一本の樹である。広々とした草原に佇むその一本の樹は、風を受けて常に揺れ動いている。ざわざわざわざわと生い茂る葉は風に揺蕩(たゆた)いながら、降り注ぐ太陽に煌めいている。その樹は私の総てを沈黙を持って受け入れてくれる。ああ青春のひととき、私を虜にしたワインよ。あなたは手を差し伸べればそこにいた。しかし決して届くことはなかったポートレートの中の「マドンナ」である。
第八の使徒を巡る重要ワイン
フィリポナ・クロ・デ・ゴワセ 1999年
シャンパンのロマネ・コンティと言われるワイン。シャンパーニュの中でも畑名が名乗れるのは、クリュッグ・クロ・ド・メニルと、クロ・デ・ゴワセ。「私はワインに命を懸けている」と言う遠峰一青が世界中の試飲会を飛び回り、800種類上のスパークリングを吐き出さずにすべて飲んで確かめた。喉ごしが命のスパークリングは吐き出せばその本質を理解できない。使徒を捜すためだけではなく、ありとあらゆるスパークリングを飲み尽くし「マドンナ」とは何かを理解しようとする。「ワインと向き合ったときから正気など捨てている」と豪語する言葉を有言実行。
第八の使徒候補(遠峰一青)
ビルカール・サルモン・キュヴェ・エリザベス・サルモン・ブリュット・ロゼ2000年
1818年から続く伝統あるシャンパーニュ・メゾン「ビルカール・サルモン」。その創始者であるエリザベス・サルモンを讃えて造られたスペシャル・ロゼ。桜の季節の霧雨のような仄かな色合い、ロゼワインであることを恥じらうような品の良さ。香りも華やかでありながら、深窓の令嬢が社交界に足を踏み入れるときのような戸惑いを感じる。このワインは強さと優しさを同時に携えた女性。そして見上げるように高く、完璧なバランスで葉を繁らせる。一本の樹であり、モニュメント。無言で受け入れてくれる。誰よりも優しく、誰よりも厳しく。手を差し伸べ、私を導いてくれる、後ろ姿のマドンナ。神咲豊多香は息子の一斉に、閉ざしてきた殻を自分の力で破ってみせろというメッセージを込めて「マドンナ」を突きつけた。
第八の使徒(神咲雫)
ジャック・セロス・キュヴェ・エクスキーズ NV
- 国:フランス
- 地域:シャンパーニュ
- 葡萄:シャルドネ
- 年代:NV
- 生産者:ジャック・セロス
辛口のブリュットではなく、甘味の乗った「セック」。透明だがわずかに黄金色を帯びている。立ち上る泡は繊細で、それでいて充分な力強さを持っている。宝石をちりばめたように煌めきながら、官能的な香を飲もうとする者に届けに来る。仄かな甘味と酸のバランスは料理とのマリアージを必要としないひとつの世界を内包している。このワインは胸を張って歩いている。このワインとの出会いは人を変えてしまうかもしれない衝撃を持っている。ときめかずにいられない。凛々しくて、たおやかな官能を携えている。激しさと静けさと強さと優しさ、清らかさとエロス、その総てが一本のワインの中に同居している。誰しもが心に抱き続ける憧れの女性を讃えて風が奏でる、過ぎ去り日のセレナーデ。
第九の使徒
神咲豊多香の記述
私は走り続けてきた。様々な困難を乗り越え、約束の地を目指して。困難の一つ一つは目の前に立ち塞がったその時は憎むべき存在だった。しかし振り返ると、それほど遠い昔のこともないのに懐かしく感じられる。今だからこそわかる。成功は「月」であり困難こそが「太陽」なのだ。太陽がなければ月は決して輝くことはない。同じように困難のない成功は、人の心をときめかせることはないのだ。成功は「果実」であり、困難は「大地」である。大地と格闘することなしに果実を手にすることは叶わない。同じように地に足のつかぬ成功などに喜びは伴わない。今ならばわかる。今ならばそれを伝えられる。勝利を手にし、果実を口にしようとしている私には。しかしどうだろう。それを後から来る者に伝えることは、困難であると同時に傲慢でしかないのだ。傲慢でしかないからこそ私は、その役割をワインに託したいと思うのである。足に残る心地よい疲れ、破れそうな心臓をなおも働かそうとする勝利への渇望。見よ、手の届くところに凱旋すべき門がある。弾ける汗、それは苦しみを乗り越えた者にこそ相応しい聖なる雫である。人々の歓声の声が出迎える最後のトラックを勇者は誇りを胸に駆け抜けていく。両手を天に突き上げ、勝利の雄叫びをもって迎えられるがよい。女神が授ける様々な紅い花の冠、勝者を讃える華やかな宴。このワインは秘めた情熱である。このワインは困難を乗り越える力の源である。このワインは華やかな成功を夢見る野心である。このワインは手にした果実であり、それを口にした若き勇者の高揚であり、忘れ得ぬ「勝利の余韻」である。
第九の使徒を巡る重要ワイン
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ・ラ・カーサ1985年
かつて遠峰一青がブラインド・テイスティングで当てられなかったワイン。あまりの個性とエレガントさに惑わされた。フルマラソンを走り切り、激しい苦痛を乗り越えて得た「勝利のトロフィー」。困難や屈辱だけでは足りない。ワインの本質を掴むためには、自らの踏み締めてきた長き道程を自らに誇りに思うこと。名声を求めず、振り返れば走り続けてきた道程を感じることができる。ダイナミックで弾ける余韻。小さな果実を潰すと、そこから太陽が生まれたかのようであり、エレガントで静謐な大地のようでもある。ラファエロの《ガラテアの勝利》の胸のすくような勝利の余韻。勝利の女神の甘いキス。遠峰一青が十二使徒を選ぶなら必ず「ラ・カーサ」をその一本にする。
第九の使徒(遠峰一青&神咲雫)
ポッジョ・ディ・ソット・ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ2005年
- 国:イタリア
- 地域:トスカーナ州(モンタルチーノ)
- 葡萄:サンジョヴェーゼ・グロッソ
- 年代:2005年
- 生産者:ポッジョ・ディ・ソット
神咲雫にとっての「神咲豊多香」。自分の愚かさと甘さを思い知らされる42.195キロ。それはたった1mの一歩一歩の積み重ね。走り出さない者に決してゴールは訪れない。遠峰一青は半分をデキャンタし、ボトルに残っているワインを注いだ。ブルネッロは一見わかりやすいが、しっかり飲むとかなり複雑で奥行きがあり、飲み手に厳しいワイン。このワインを選んだ自分を信じ、じっくりと開くのを待ち続け飲み通した者にだけブルネッロの女神は微笑む。グラスから放たれる香りは、色の明るさとは裏腹に汗ばむような強さを感じる。真の歓喜とはゴールではない。生きていくことは走ることであり、走り続けることは無数に現れ出でるハードルを越えていく旅。歓喜は旅の過程にこそ横たわっている。評価する者などいらない。明日に向けまた新たな挑戦を始める。このワインは自らに捧げる月桂冠。
第十の使徒
神咲豊多香の記述
ここは夜なのか、それとも地の底なのか。激しい生命力を孕みながら私は種子のようにその時を待つ。生きることの意味を探し続けて彷徨うことは決してたやすくはない。それは時に振り返り、時に駆け出し、立ち止まって思い悩むことの繰り返しなのだ。胎動そして誕生。闇を這い登り、光の誘惑に導かれ、目指すものはまだ見ぬ空。地の底とめくるめく外界を隔てる地平を突き抜けて私は木の芽のように天にその手を伸ばす。光だ。待ち続けた光。私は一気呵成に果てしない空を目指し巨木となり天に向かって行く。眼下に広がる大地、生命の坩堝、土、水、草、花、獣、人はもちろん小さな虫けらまでも私は今虚空から俯瞰している。胸に一節の歌が浮かんだ。「花に鳴く鶯(うぐいす)水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける。力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむる歌なり」。宇宙から望む地球とはかくなるものか、闇の直中(ただなか)に浮かぶ優しき輝き、命の源。このワインは魂である。このワインは俯瞰した大地である。このワインは宇宙の広がりである。そしてこのワインは「希望」である。
第十の使徒を巡る重要ワイン
シャトー・イガイ・タカハ ”美夜(ミヤ)” シャルドネ2010年
遠峰一青がハワイでスキューバ・ダイビングのエルザと飲んだ。海の香り、陽光が届かない海底を連想する微かな香りがするワイン。ハワイの海を眺めながら飲むジャパネスクの魂を秘めたワインはステンレスタンクならではの純粋さを携えたシャルドネでなければいけない。深海に潜りゆく瞬間は、あたかも眠りに就くまでの曖昧の時間のよう。ほの暖かく安らぐような暗黒。まるで子宮のよう。胎内回帰を経験している。死と隣り合わせの生を感じる。長い眠りは死と同質にありながら決定的に異なっている。死は永遠であり眠りはいつか覚める。永遠は一瞬であり一瞬はまた永遠でもある。ワインもまた造りし人の寿命を遥かに超えて眠り続け、目覚めた時に大輪の花を咲かせる。
第十の使徒候補(遠峰一青)
ロベール・シュルグ・グラン・エシェゾー2007年
古木ゆえの根の深さからくる、めくるめくような世界観の広がりを感じる。筋肉質で男性的といわれる「グラン・エシェゾー」でありながら、エレガントで幽玄さを感じさせる静けさがある。このワインは美しすぎる。生命とは苦しみと破壊、産声という名の歌声から始まる。どこか眠りに誘われるような香り、華やかで甘く官能的だが水底に揺らぐような静けさがある。透明。煌めくような明るいルビー色。光の最も美しい要素だけを通し瞳に伝えてくれる。常に何かが起こりそうな遠く静かな気配を孕みながら、このワインはただそこに在る。決して動かず黎明の空のように期待に満ちている。生きとし生けるものを刹那の輝きで満たしてくれる。それは幽玄。有限こそが生命の源であり、命の帰り着く現し世(うつしよ)の果て。生けるものの最後の希望、「輪廻転生」のワイン。
第十の使徒(神咲雫)
ロベール・シュルグ・グラン・エシェゾー2002年
- 国:フランス
- 地域:ブルゴーニュ(グラン・エシェゾー)
- 葡萄:ピノ・ノワール100%
- 年代:2002年
- 生産者:ロベール・シュルグ
樹齢80年超のピノ・ノワールの古木からわずか2樽だけ生み出される奇跡のワイン。力強さを感じながら「筋肉質」「男性的」といった言葉では表現しがたい、生命力とスケールの大きさ、そして安らぎが備わっている。命あることを喜ぶ歌。輪廻転生は希望だが、そこに肉体の温もりは感じられない。概念に過ぎず、生命の歌声を伴うことはない。このワインは若々しい紫に近い赤。非常に力強く濃厚であることがわかる。芳醇な香りを嗅ぐだけで全身が総毛立つ。何か不思議な目に見えないものに包まれているような香り。飲み込んだ瞬間、驚くべきワインの生命力に目を開かされる思いがする。胸がすくような解放感、無上の心地良さ、快楽そのもの。このワインが課す暗闇を抜け出た瞬間、世界の豊さに酔いしれる。手を広げ、大きく息を吸い込み、無数の花や植物、虫や鳥、そして獣たちまでが祝福してくれる。宇宙から見た地球は青く輝く星のひとしずくにすぎない。でも大地に佇む俺たちには、かけがえのない生命が生まれ、育ち、そして滅ぶ。森羅万象を確かに感じることができる。「希望」とは繰り返される魂の輪廻。この世が永遠に続く限り永遠に繰り返される「希望」と「祝福」のひととき「誕生」のワイン。
第十一の使徒
神咲豊多香の記述
このワインには風が吹いている。情熱を求めて彼の血を訪れし時、私は知った。汗を鎮めてくれる風、その清々しさ、灼熱の大地に吹く風の豊かさを。この夕陽を刻みつけたワインをグラスに注いだ時、私には色とりどりの風が見えた。風がなぜ一抹の寂しさを帯びているのか、答えは風が常に去ってゆくものだからなのかもしれない。私は風に運ばれて天空に舞い上がる。限りない大地の豊かさを離れた空から見下ろす時、いつか自分に訪れる永訣の時を思わずにはいられないのだ。その時思い出すのは家族が揃っていたあの幸福なひとときである。出会いともに暮らし、苦しみ愛し合い、ずっとずっと与え続けた日々が風とともに遠ざかっていくのを見つめながら私は佇む。そして初めて知るのだ。別れこそが総ての始まりであることを。太陽よ降り注げ、生命を育むがよい。雨よ濡らせ、大地を潤し、生きとし生けるものを癒すがいい。風よ運ぶがよい。命を宿しし種子を新たな天地へと。私はただ見送る。樹のように佇みながら、ふと瞳の奥を射る燃えるような夕陽。天地に織り成す光と影の物語。火照りを和らげてくれる風だけが優しく頬を撫でてくれる。さらば愛しき者よ。お前は私であり私はお前でもある。天に向かい永遠に伸び続ける樹のような大地の奥にもくもくと張りゆく根のような。風に乗りどこまでも旅する種子のような。そんな人生であれ。風よ、私をどこに連れていってくれるのだ。太陽よ、私をどこから見守ってくれているのだ。今度こそ私はこの地平から旅に出る。生きて生きて生き抜いてきた今だからこそ出られる創造の旅へと。人生を回想する時、そこに私は愛するが故の決別がある。決して振り返らない後ろ姿を。いつまでも眺めていられる自分の強さ、優しさ、理解。無からもう一度始められることへの情熱と期待。新たなる旅立ちの予感。いつの日かお前たちも見るだろう、この夕陽を。そしていつか感じるだろう。このワインは太陽とともに去りゆく風である。
第十一の使徒を巡る重要ワイン
キンタ・ダ・ムラデッラ・ゴルビア・ブランコ 2006年
標高1000mを超える高地のガリシア地方の単一畑で地葡萄ドニャ・ブランカ100%から造られた白ワイン。ソニアが働く店で遠峰一青が離婚が成立して一人旅をするフランス女性に出したワイン。木々の葉からこぼれ落ちた朝露で道はしっとり濡れ、鳥たちの歌声が聴こえるブローニュの森。昨日までの長い雨がようやくあがり、森の木々の葉が朝露で生き生きと輝いているようなワイン。夕陽のワインを探しているが、赤、白、夕陽、風も関係ない。お客様との心象風景をワインと重ね合わせる。そうすることで心の中の「夕陽」とはなんなのか、漠然とした問いかけに答えを見出せる。人それぞれの心象風景を映し出すワインを見つけ出し、重ね合わせる作業を続けていきたい。
第十一の使徒候補(神咲雫)
テロワール・アル・リミット・レス・マニェス 2008年
テロワール・アル・リミットのトップキュヴェの一つ。幻のプリオラート産ガルナッチャ100%のグレートワイン。高貴な花のような香り。心が躍る。火照りを静めてくれる涼やかな風が吹き抜けていく。森羅万象、無数の生命そのものを吸い上げて、どこまでも運んでくれる偉大な風。イカロス。太陽に挑もうとした男、そして太陽に抱かれ焼け落ちた男。太陽の温もり求めて旅立つ。これは夕陽ではなく金環日食。前触れもなく温もりを奪いながら透明な薄闇の空に超然とした輝きを残す命のダイヤモンド。神咲豊多香という太陽の偉大さ、金剛石のごとき揺るぎない信念、最後の輝きを求めた。
第十一の使徒(遠峰一青)
フェレール・ボベ・セレクシオ・エスペシャル 2008年
- 国:スペイン
- 地域:カタルーニャ地方(プリオラート)
- 葡萄:カリニェナ主体
- 年代:2008年
- 生産者:フェレール・ボベ
醸造家ラウル・ボベ氏が大富豪セルジ・フェレール・サラ氏と組んだワイン。踊る妖精のように舞うたびに香りを振りまく。高いアルコール度を示す涙。色合いは決して濃くない。口に含んだときのエレガントさを、見るものに視覚的に訴えてくる。このワインは教えてくれる。太陽が育む命を。癒してくれる風の涼やかさを。木々や草花の揺れる影がこの時を祝福し、いつまでも続くかのような余韻を信じて疑わなかった。しかし、風が連れてきた癒しは風とともにいつかは去り、太陽が連れてきた温もりは太陽とともにいつか消えていく。私は風を追いかける。私は夕陽を追いかける。背中を見せて立ち去る、偉大な影を追いかけてゆく。このワインは、燃え尽きようとする者の残す残照、夕陽の遺言である。
第十二の使徒
神咲豊多香の記述
私は歩いている。苔生した暗い森を抜けると太陽の照りつける丘が開けた。だが、その丘はまた霧に覆われ、私は歩むべき道を失う。私はまた歩いている。そこは静謐な寺院。歴史を刻みつけた長い廊下は、光が差してはとだえ、どこに続いているかも定かではない。私はふいに檻に閉ざされた。しかし、その檻は人を閉じ込め苦しめるための檻ではない。むしろ、その後ろに待つ喜びをより深くするための、神の仕掛けた余興なのである。私はしなやかな雌ライオンに出会う。鳶色の目でじっと私を見つめている。私に恋をしているのだろうか?その吸い込まれるような瞳。歩み寄ろうとすると、背を波立たせながら逃げ去ってしまう。私はまたひとり。そして、歩き出す。私は歩いている。色とりどりの果物や、花や、麦わら帽子、そして絹の織物や笑顔、溢れかえるそれらは昼下がりの市場だ。私はそれから総てを味わいながら、ゆっくりと時の流れを楽しむ。ゆっくりと気まぐれに食べ、気まぐれに言葉を交わし、そしてくつろぐ。私は泳いでいる。深い、底の見えない透明な泉を。果てしなく続くグランブルーの彼方に、私はゆっくりと滑り落ちてゆく。これは温もりなのか、それとも優しい絶望なのか。絶望だとするなら、もう決して戻ることはできないだろう。私はピクニックに出かける。誰と?決まっている。幼い頃の私とだ。年老いた私を、幼い頃の私が不思議そうに見つめている。そして自由に駆けまわる幼い私を、年老いた私が見守るように見つめている。どちらも同じ私。一本のワイン。私はパイプをくゆらしながら、遠い海を見つめている。日はとうに沈み、夕闇が視界を閉じ始めている。私はいつの間にか眠りに落ちていた。若き日の私は血気盛んに嵐の海を乗り越えてきた。歳を重ね、大地を踏み固めるように前に進んで、時に壁を登り坂を下り、泣き、笑い、怒り、喜んだ。黄昏を迎えた私は歩いてきた道を振り返るが、そこには何も見えず、ただ足跡だけが続いていた。決して戻ることのできない私ひとりの足跡、ふと目を覚ます。入れたばかりの紅茶は、まだ温もりを残していた。60年の歳月は、一瞬の夢に過ぎなかった。このワインはまどろみが連れてきてくれた長く、短い夢である。このワインは永遠であり、そして一瞬である。
第十二の使徒を巡る重要ワイン
クリスタル・ブリュット2004年
遠峰一青が最も好きなシャンパーニュ。大地を感じる。金色の光が降り注ぐギアナ高地の豊な自然が放つ魅惑のアロマ。生命の賛歌そのもののワイン。人は肉体を持っている時だけが生きている時間じゃない。人生は死が必ずしも終わりじゃない。ワインとともに生きワインとともに滅びる。そんな人生を受け入れる。本当に愛しているなら、愛する女性のためにワインを選び、グラスに注ぐ。そんな人生を全うすべき。人生の意義は一つではない。夫として別の男性を選んだとしても彼女が人生の総てを注いできたワインの世界をともに全うする。夫ではなく、人生のソムリエになる。
第十二の使徒候補(遠峰一青)
シャトー・ディケム 1975年
シャトー・ディケムは100年前のものでも保存が良ければ若々しく感じられる超長熟の甘口ワイン。黄金を絞ってその雫を貯めたかのよう。いつまで眺めていても見飽きることがない。このワインが見せてくれたものは生きてきた証、その虚空に描かれたクロニクル、「永遠」という名の幻。走馬灯。75年は起承転結を持つ完成された作品。完成しているということは完結している。
第十二の使徒(神咲雫)
シャトー・ディケム 1976年
- 国:フランス
- 地域:ボルドー(ソーテルヌ地区)
- 葡萄:セミヨン、ソーヴィニヨン・ブラン
- 年代:1976年
- 生産者:シャトー・ディケム
黄金の液体の中に無数のアロマ渦を巻いている。液体でありながら宝石のような存在感を放っている。心をわし掴みにされるような抗いがたい魅力が香りからも色合いからも漂い出ている。脈動している。このワインには生き物のように命の鼓動を感じる。喪失と獲得、喜びと悲しみ、出会いと別れ、成功と挫折。相反するものにこそ物語がある。それをワインが教えてくれる。魅力とは矛盾をはらんでいるもの。人生とは相剋の繰り返し。このワインは偉大なる混沌、時空を超えて受け継がれていく人としての営み、このワインは魂の継承。
神の雫
神咲豊多香の記述
冒頭文
私は50年余にわたり世界のあらゆるヴィンテージのあらゆるワインを飲み続けてきた。それは心躍る出逢いの旅でありながら、羅針盤のない長く苦しい航海でもあった。ワインとは何か、何故に数千年の永きにわたり、あの芳醇な香りの放つ美しい液体は人類を虜にし続けてきたのか?その問いかけはあまりに茫漠とし、私を魅了しつつも悩ませてきたのである。しかし今、死を前にして私はようやく旅の終着点に待つ大いなる問いかけの答えに辿り着くことができたような気がする。天・地・人。総てがひとつに調和する中で生み出されるワインは、単なる酒ではなく一編の名作であり一枚の名画である。しかし、いかなる名作、名画にも完全無欠なものなど存在しない。ワインもしかり。いや何の欠点もない完全無欠のワインなどと言うものが仮に存在したとして、それは果たして何物にも勝るワインなのだろうか。少なくとも私の飲んできたワインという飲み物はもっと不完全で、それ故に欠点を補ってあまりある魅力に溢れていた。ワインとは何ぞや、この問いかけに私が到達した答えをただ言葉のみで表現するのは難しい。したがって私はその答えを、いくつかの神々しいワインの味わいにたとえることで伝えようと試みることにした。今、私の脳裏に浮かぶ12本のワイン。あたかもキリストを讃える12人の使徒たちのごとく、それぞれ欠くべからざる役割を有している。伝説的な完成度を見せるワインは数多くあるが、私の選んだ12本の使徒たちは完成度を競うものではない。私がワインに求めるもっとも大事な存在理由(レゾンデートル)をあえて12のピースに分け、それを表現しうるワインこそが選び抜いた十二使徒なのだ。そして、これらの十二使徒を従えながら、超然とした孤高の光を永遠とも思える歳月にわたり放ち続ける1本こそが、私の求める天上のワイン『神の雫』なのである。
一枚目
人はひとつの宿命を携えながらこの世に生を受ける。宿命とは自らのなかにある「神」を探し求める定めである。すなわち誕生は「神」と巡り合うための旅の始まりなのだ。自らの「神」を探訪する旅は、ひとりひとりその地図が異なっている。従って『神の雫』の話をする前に私の地図の話をしよう。人の味覚の記憶は何歳まで遡れるものなのだろう。私の最も古い味わいのイメージは外交官だった父のお気に入りのパリのビストロで口にしたコンソメスープだった。蠱惑的な香りを放ち、そしてこれまで飲んだどんなスープよりも濃厚でありながら透明で、何よりも舌の上でいつまでも余韻を残す素晴らしいダブルコンソメ。それは日本で私がそれまで食べてきたコンソメスープとはまったく違うものだった。そうして私は「味わう」ことの意味、そして「幸福」を幼いながらに学んだのだった。成長した私は世界中の町を旅する機会を得た。そのなかで訪れたフランスのブルゴーニュ地方で、私はとある一本のワインと出会ったのだ。その瞬間、私の眼前で巨大な扉が音もなく開いた。そして、さまざまな香りと馥郁(ふくいく)たる味わいが私に手招きしてきたのだ。ワインという名の底知れぬ迷宮の中へと。私は確かに感じた。ワインという液体の中に無限に溶け込み、その細胞の一つ一つを成している無数の瞬間、大地と人の記憶と情熱。それは歴史であり文化であり自然であり、すなわち神々の大いなる意思そのものだったのだ。その扉たるや、荘厳かつ優雅で見事なレリーフを刻みつけ、訪れるものを誘い、聞かせようとする魅惑にあふれていた。しかし、扉の存在は常に目の前に置かれているわけではない。森の奥、深い霧に閉ざされている時に訪れようとしても、幻の如く通り過ぎることもあるだろう。私は誘いに抗えず、扉を開き中に一歩を踏み入れた。その瞬間、眼前に広がった光景、そこにはまたいくつもの道が延び、それぞれの行く先には霧に霞んだ扉が、無数の誘いが待ち受けていたのだ。ある扉はさながら妖精の如く儚い金色の長い髪の女性、またある扉はダビデのような存在感を放つ筋骨隆々たる男性、しかもその先にはめくるめく自然美、ルーブルさえも凌駕するアートミュージアム。そしてある扉からは楽聖たちの紡ぎだした流麗なる旋律がおごそかに漏れ聞こえてくる。ああ私はどこへ向かえばいいのだろうか。ひとしきり迷い、ふと振り返ると、そこには私がたった今聞いたばかりの扉はもうなく、ただ霧だけがたちこめていたのだった。私は決意をした。前に進もうと。次なる扉を開こうと。そして、一歩を踏み出したのだ。それは
二枚目
結果として究極のワイン『神の雫』への果てしない旅の始まりだったのだ。ワインの旅は一人ではできない。そして旅先で必ずまた新たな出逢いがあるのだ。人との出逢いはワインとの出逢いでもある。振り返れば私はいくつもの出逢いを重ね続けてきた。ある時はロンドン裏町のワインバーで、ある時はドイツの美しい古城ホテルで、またある時はナパ・ヴァレーの賑やかなレストランで、刮目すべきワインと出逢ってきた。そして、その度にまた新たな扉が忽然と目の前に姿を現す。私は新しい扉に出逢い、それを押し開ける度に、また新たな扉を探したい渇望にとらわれた。それはあたかも岩壁を登りつめるクライマーが、ハーケンを打ち込みながら上を上をと目指す姿と重なる。登りつめていく中で、ふと気づいたことがある。絵画にたとえるなら零号の小さなキャンバスでは真の名作は表現できない。またどんな優れた建築家であっても、東屋のような簡素な建物で彼の芸術をすべて表現することは叶わないだろう。至高の芸術や世界観の表現には、ある種大きさが必要なのだ。そしてもうひとつ、即興で奏でられその場を盛り上げる音楽も優れた芸術に違いないが、真の名曲とはどうだろうか。たとえばかつてヨーロッパでもてはやされた宮廷音楽家は当時の貴族たちのためにたくさんの曲を書き演奏もしてきた。しかしその多くは振り返られることもなく時の波間に消えていったのだ。時は残酷であり公平だ。真の名曲は時の荒波を乗り越えて生き続けていく。それは限りある時と地平に生きる宿命を背負った人間の永遠の憧憬。長い長い時を生きる生命の力強さなのである。ワインは人と人の歴史から始まった。その全世界を覆う巨大な系統樹の根本にはキリストの血が捧げられた。そして幹はふたつに分かれ、ひとつは西へ、もうひとつは東へと伸びていった。西の幹は、
三枚目
悠久の時を生きて果実を生み出し、東の幹は大地からの永遠を閉じ込める実を結ばせたのである。その一方で私は命というものの誕生と成長にも思いを馳せる。命、その瑞々しさ、眩しさ、秘めたる可能性の大きさこそ、すぐれたワインにも通底するエレメントなのである。収穫したばかりの新鮮な野菜、もぎたての果実、子牛を産んだばかりの母牛の乳、水揚げしたばかりの魚や貝、食べ物ばかりではない。たとえば「青の時代」のピカソもそうだ。友を失った青春の痛みをキャンバスに吐露した作品の数々。そして21歳のショパンが作曲したあの「夜想曲第二番(ノクターン)」のよどみない旋律、16歳にして青春の倦怠を描いた文豪、三島由紀夫の「花ざかりの森」、人も年齢を重ね、喜怒哀楽の日々に磨かれる部分もあれば、それ故に失いゆく蒼さもあるだろう。河の流れに晒される石を見よ。荒々しい姿で流れに抗っていた。それもやがては角が取れ、河原に流れ着いていく。時は与えもするが奪いもするものである。「神」は慈悲深くありながら残酷でもあるのだ。ワインもまた然りである。時を重ねたワインに神は、えも言われぬ蠱惑的な装いとエロスを授けるが、同時に溌剌とした躍動感や少女のような初々しさ、刮目するような華やかさを奪っていく。一方で誕生して間もないワインは複雑な表情をまだ演じきれていない女優のようだ。しかしその戸惑いが魅力であることも少なくはない。ワインの素顔が見えるのはこの短い期間だけなのだ。私は思うことがある。これら二つのグラスを捧げた時、酒神バッカスはどちらを選ぶのだろうか。その答えを探すために、私は更なる旅を続けねばならなかった。私は再び扉に手をかけたのだ。その向こうには、
四枚目
絢爛豪華な宮殿が控えていた。そこには恐れを知らぬ勇者、着飾った貴婦人たち、よく笑う子供たち、沈思黙考する哲学者、敬意を集める長老、美しい白馬、しなやかな雌豹、壁には草原や泉が描かれていて、誰もがグラスを手にしている。そう、この宮殿では生きとし生けるものが、神々の振る舞い酒に酔いしれているのだ。しかしなぜか、そこに宴を彩るご馳走はひとつとして見当たらない。銀色の食器もない。人々はみなグラスだけを手にしながら宴に興じていたのだ。私は宴の中にバッカスの姿を捜した。私が求める1本が何か問いかけるために。いた。その後ろ姿を見つけると私は歩を早める。人々や獣たちをかき分け、神の背中を追い求めるが、手が届くかと思ったその刹那、神は逃げ水のように遠ざかり、人混みに紛れてしまう。迷い、戸惑い、それでも高揚に後押しされながら追い求めた。人々から差し出されるワインを口にしながら、次第に私は夢心地になっていく。ああもう歩けない。直ぐそこそにバッカスの背中が見えるのに。もう追いつけないかと諦めかけたその時、バッカスはふと立ち止まり振り返った。その手には中身の見えない黄金のワイングラスがあったのだ。私は尋ねた。そのワインはなんなのかと。バッカスは答えた。私そのものだと。バッカスはふいにグラスを口元に寄せると一息に飲み干してしまった。そして空になったグラスを私に差し出し、こう告げたのである。神を捜そうとするな。それはアルフでもなければオメガでもない。しかしそれは、神の祝福を求めし者が生み出した、ひと雫である。私は気付いた。そして誓った。バッカスに授けられたこの黄金のグラスに、いつか必ず『神の雫』を注ごうと。決意を固めて振り返ると、そこにはさきほどまでの宴の気配は何ひとつ残っておらず、ただ霧が立ち込めるだけだった。そして霧をかき分けるようにして再び一歩を踏み出すと、私を誘うように次の扉が濃霧の向こうから姿を現したのだった。
五枚目
扉を開けるとそこは真の闇だった。私は困惑した。それまで見えていたはずの光景がいっさい私の前から消え失せてしまったのだ。私はかつてない孤独を覚え、進むべき道を失ってしまった。しかし闇になれていくと周囲の光景がうっすらと浮かび上がってきた。何かが見える、蠱惑的な何かが。私は歩み寄る。すると漆黒の衣を纏った優美な佇まいの女性が私を振り返り、微笑みながら闇の向こうへいざなう。ためらいながらも従っていくと、そこは緑深い森の奥。孔雀が舞い降りてその色艶やかな羽根を振り、たわわになる果実を落とす。黒衣の女はそれを拾い上げ私に差し出した。完熟した無花果(いちじく)。一口齧(かじ)れば私の飢えも渇きも癒してくれそうな甘く芳醇な香り、めくるめくエロス、この女の誘いに乗れば私の旅は終わるのだろうか。私は誘惑に抗えず、果実に手を伸ばした。享楽に身を委ね、どこまでも堕ちていく。それもまたワインなのだとひとりごちて。しかしその刹那、一陣の風が吹き抜け私の手から果実を奪っていった。私は驚き振り返った。するとそこには純白の鬣(たてがみ)をたなびかせた一角獣(ユニコーン)が私をじっと見つめている。黒衣の女はいつのまにか姿を消している。手から滑り落ちた無花果も見当たらない。一角獣は神の言葉を伝えた。「惑わされるな」「真の楽園はユニコーンの角が指し示している。私は気がついた。虚空に浮かぶ微かな光に。それは頼りなく、ともすれば見失いかねない蛍のような光だった。私はユニコーンに誘われて光を目指した。近付くにつれ光は次第にその姿を露(あら)わにしていく。私の眼前に現れたそれは、これまでに見たことのない完全なる球体。過剰なものがなく不足しているものもない。天から降りてきたとしか思えない、その球体に触れようとした私は逆にそれに飲み込まれていく。ああなんという不思議な感覚だ。温かくしなやかでそれでいて強い。全身を球体に浸そうとした私は気がつくと楽園にいた。
六枚目
ふわふわと私は楽園に向かって降りてゆく。空から見たユートピア、完全な球体の上で彼らは夢のような幸福を享受している。私は楽園に降り立った。ゆるりとたちのぼる複雑な香り、それは小さな花々や草、果実、そして岩肌の香り。あちこちから聞こえる楽しげな囁きと笑い声。ここには苦しみも悲しみもないかのように誘いの風が頂の上から吹いてくる。私はまだ歩みを止めるわけにはいかない。頂から吹き下ろすそれは挑むような向かい風だった。自ら汗を流し続けてきた者だけが知る頂の光景を「お前は見たくないのか?」と風が問いかけてくる。私はまた一歩を進める。いくつもの完備な罠や囁き、それを振り切って登り詰めていくのはなんと困難な道のりだろうか。人は誘惑に弱く、華美なものに目を奪われる。何度となく迷う。私は道を間違えていないのだろうか。本当にこの困難の先に至福の頂はあるのだろうか。私は立ち止まり振り返る。そこに広がるのは楽園の誘いである。しかし私は楽園の誘惑を振り切り頂を目指そうとしている。なぜだ?ワインとは楽園ではなかったのか。なのになぜ私は楽園を背にしているのだ。迷い動けなくなった私に一筋の光が雲間より差し込んだ。光は私に語りかけてきた。「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く入る者も多し。生命に至る門は狭く路は細く、故にこれを見出す者少なし」。私は考える。なぜ「滅び」に対照する言葉が「生命」なのだろうか。答えを知りたくて私はまた歩き出した。息を切らせながら登り詰めていく私の目の前で、突然霧が晴れ頂が目に入る。そこには美しく磨かれた鋼の鐘が佇んでいた。私を待っていたかのように、どこか超然として。ふいに確信が湧きあがる。頂に駆け上がり、汗をぬぐいながら私は鐘を鳴らした。神々しく透明で世界の全てを包み込むように深い、終わりなき輪廻を紡ぐ音色がどこまでも豊かに広がっていく時、私は初めて気付いたのだ。頂から見渡す世界の雄大さに、そして…
七枚目
私は気付いた。おお、なんということだ。登り詰めてきた山が私の過去とするならば、この山こそがバッカスの導きではなく、私自身が積み上げてきた幻想の山だったのだ。自分の歩んできた道、その葛藤と喜び、それらすべてがこの高く険しい山を成す石や土塊(つちくれ)、木々や草花の一つ一つだったのである。顧みると、そこにはいくつもの困難を乗り越えなければ頂に辿り着けない求道者の道と、幸運な出逢いによって閃きを得て天空を鳥の如く舞い、ここに辿り着ける道とがある。私は理解した。そうか、ここは私にとってのワインの頂なのだ。私の人生は困難と幸運がモザイクのようにちりばめられていた。そう、まさにモザイクだ。聖堂を彩るモザイクにはタイルの一つ一つに意味がある。ワインも凡庸な1本ですら欠くべからざるタイルの1ピースなのだ。私は悟った。この頂に立ったその理由は未来にこそある。なぜなら過去を振り返ることなしに未来を思い描くことはできないからなのだ。頂から眺める遙かなる未来。その裾野は未だ雲海の彼方に霞んでいる。しかし目を閉じると瞼の裏には二つの大河が滔々(とうとう)と水を湛えて流れている。その河の一つは、ほとりに楽園を生み出しながら豊かさを運び幸福をもたらしていく。たわわに木の実がなり、たくさんの動物が戯れ、植物を食(は)み、新たな生命を育んでいるのだ。だが不思議なことに、その世界に人の営みは見てとれない。きっとあるはずのそれだが、何故だろう、私には届かない。もう一つの河に目を移すと、今度は大地に大勢の人々の姿が目に入る。彼らはみな豊作に感謝し、次の実りを神に祈り捧げている。厳かな祝祭、天がもたらした恵み、雨の日も風の日も灼熱の太陽のもとでも、決して休むことなく大地に向き合ってきた者だけが得られる奇跡。同じ頂から流れ出たひと雫が、こんなにも大きく異なったそれぞれの生命の物語を紡ぎ出すものなのか。ふいに裾野に立ち込めた霧が晴れ、大河の果てにある光景が見えた。それは太陽を照り返し、美しくうねる海原。人間が存在するはるか昔から世界を包み、あらゆる生命に豊さをもたらしてきた母なる海。そして二つの大河はためらいもなく海に注がれていく。太古の昔からそうであったように、ひと続きの海。おお見よ、まったく異なった幸福をもたらした二つの大河を飲み込んだ海原を。天を支えるような巨木が見下ろしている天・地・人の奇跡を見届けるかのように。『神の雫』とは二つの大河を抱く豊穣の大地にあり、母なる海を見守る永遠の大樹である。アルファはオメガでありオメガはアルファである。空は大地を必要とし、大地は空を必要としている。ゆえに二つの境界に線はなく、どちらも終わりなき世界に佇んでいるのだ。その混沌たる空と大地の果てで『神の雫』は語り続けている。
神の雫を巡る重要ワイン
シャトー・ムートン 1982年
最後の対決の前、モノポールで藤枝が雫とみやびに開けたミレーの「晩鐘」のワイン。夕陽の温もりが頬を包み、大地の香りが鼻孔の奥をくすぐる。その日一日の仕事の終わりを告げる天使の鐘の音が、胸の奥に染み込んでいく。永遠なるものへの祈りを伴って。神咲豊多香が『十二使徒』と『神の雫』の戦いに入る前に飲ませたワイン。ワインはただの酒じゃない、その奥深くに抱えるイメージの世界に踏み込んでみないかという誘いの一本。
神の雫(神咲雫)
シャトー・シュヴァル・ブラン1982年
- 国:フランス
- 地域:ボルドー(サンテミリオン地区)
- 葡萄:メルロー45%、カベルネ・フラン55%
- 年代:1982年
- 生産者:シャトー・シュヴァル・ブラン
注いだ瞬間は透明感のある濃い海老色。グラスの中でみるみる鮮血のように輝きを増し、空気に触れて息を吹きかえす。ピジョン・ブラッドの胎内に物語を秘めている。指先でふれることができるかのような立体感のある香り、こらえがたい情念が湧き上がり、全身の毛穴が開いて鳥肌が立っていく。魂がワインと一体化する。境目がなくなってそのままワインに溶け込む。ワインが生み出したイリュージョンの球体に魂が吸いこれまれる。壁画のようなひとつの芸術作品。しかし、近づいてみると、そこにはさまざまな暮らしや喜怒哀楽や、はるかな過去と現在を繋ぐ時の流れそのものが綴られている。このワインは全てを知りつくしている。それでいて語りかけようとはしない。静かに飲む人間を包み込みながら細胞の一つ一つに悟らせようとしている。気付ける者は気付く。気付かない者にも、また別の価値をもたらしてくれる。このワインは季節を物語らない。逆にすべての季節や時間を内包している。時間も空間もやすやすと乗り越えてこのワインは存在している。このワインは「イリュージョン」としての完全と同時に、完全なるワインはこの世に存在しないことの「証」
神の雫(遠峰一青)
クロ・ド・ラ・ロッシュ2002年
- 国:フランス(ブルゴーニュ)
- 地域:コート・ド・ニュイ(モレ・サン・ドニ村)
- 葡萄:ピノ・ノワール
- 年代:2002年
- 生産者:ジャッキー・トルショー
煉瓦色の液体はブルゴーニュの土に似ている。長く伸びる影を連れてそぞろ歩きしたいつかの日のような、その色を見た時からすでに物語は始まっている。香りに誘われて、ただそれだけで完璧な球体の中に取り込まれている。完全な球体はすべての始まりの姿。至高のワインこそが理想や完璧や楽園や幸福、そんな世界を垣間見せてくれる。しかしそれは長い余韻と溢れ出す香りがもたらしてくれる刹那の「夢幻」。『神の雫』とはワインという名の美しき幻影。「生命のイリュージョン」
神の雫と十二使徒 一覧
第一の使徒
シャンボール・ミュジニー・レ・ザムルーズ 2001年(森の奥の二匹の蝶)
第二の使徒
シャトー・パルメ1999年(子を宿したモナ・リザ)
第三の使徒
シャトー・ヌフ・デュ・パプ・キュヴェ・ダ・カポ 2000年(郷愁と団欒)
第四の使徒
シャトー・ラフルール1994年(初恋)
第五の使徒
ミシェル・コラン・ドレジェ・シュヴァリエ・モンラッシェ 2000年(試練と達成)
第六の使徒
バローロ・カンヌビ・ボスキス 2001年(旅立ち)
第七の使徒
シネ・クア・ノン 2003 ザ・イノーギュラル・イレブン・コンフェッションズ・シラー(仲間)
第八の使徒
ジャック・セロス・キュヴェ・エクスキーズ NV(マドンナ)
第九の使徒
ポッジョ・ディ・ソット・ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ2005年(勝利の余韻)
第十の使徒
ロベール・シュルグ・グラン・エシェゾー2002年(誕生)
第十一の使徒
フェレール・ボベ・セレクシオ・エスペシャル 2008年(夕陽の遺言)
第十二の使徒
シャトー・ディケム1976年(魂の継承)
神の雫(神咲雫)
シャトー・シュヴァル・ブラン1982年
神の雫(遠峰一青)
クロ・ド・ラ・ロッシュ2002年
第一の使徒は「人生の序章」、その始まりの静けさを表現。第二の使徒は「母」、その体内で人は芽生えこの世に生を受ける。第三の使徒は「父の温かい手」、その手に抱かれた安心感、第四の使徒は「初恋」、思春期の切ない思い出。第五の使徒は「試練と達成の喜び」、第六の使徒は旅立ちであり「親からの独立」、第七の使徒は、独りでは決して成し得ない大いなる夢に向かって集いし若き力。ともに歩む「仲間」。第八の使徒は誰しもが心に抱き続ける憧れの女性「マドンナ」。第九の使徒は「勝利の余韻」。第十の使徒は希望と祝福のひととき「誕生」。第十一の使徒は、燃え尽きようとする者の残す残照「夕陽の遺言」。第十二の使徒は自分の人生を語り終え、後を託す「魂の継承」。
神の雫はボルドーの一級シャトーのように永遠に変わらないものではなく、テロワールとヴィンテージと醸造家の哲学が思いもよらぬ化学反応を起こした二度と造られないかもしれない「ひと雫」である。この世に唯一無二はない。